ウォルマートの外観

サム・ウォルトン伝 一代でウォルマートを築いた20世紀最高の商人

サム・ウォルトンは1962年にアメリカのアーカンソー州ロジャースでウォルマートを創業した実業家です。ウォルマートは全世界11000店舗以上を展開し、220万人の従業員をかかえる世界最大の小売企業です。
ウォルマートは日本ではあまり馴染みがないかもしれませんが、世界27カ国に店舗があり、毎週2億人以上が訪れる巨大小売チェーンです。日本では西友などを子会社として展開しています。さらに、売上高は2015年1月期で4856億ドルにのぼる世界屈指の企業です。このウォルマート帝国を一から築き上げたのが、サム・ウォルトンです。

サム・ウォルトンの10カ条!ビジネスで成功するために大切なこととは

photo credit: Mike Mozart

サム・ウォルトンの生涯とウォルマートの発展

要約

1918年、アメリカに生まれる。ミズーリ大学卒業後、小売企業のJCペニーに就職。第二次世界大戦の間の兵役を経て、1945年にフランチャイズの小売店を開業。1962年、ウォルマートを創業。1970年、株式公開。1985年、フォーブス誌により世界一の富豪に選ばれる。1988年、CEOを退任。1992年、大統領自由勲章を受章。同年4月、逝去。

サム・ウォルトンの子供時代

サム・ウォルトン(Sam Walton)は、1918年3月29日にアメリカのオクラホマ州キングフィッシャーで、父トーマスと母ナンシーの間に生まれました。5歳までオクラホマ州で育ち、その後ミズーリ州に引っ越します。

ウォルトンの父は様々な仕事をしていましたが、大恐慌ですべてを失い、兄弟の経営する生命保険の代理店で働くことになりました。ウォルトンは父について、自分の知る限り最高の交渉人であったと評し、また勤勉で誠実な人間だったと述べています。母については、子どもたちに並々ならぬ期待をかけており、人にやる気を出させる名人だったと回想しています。

ウォルトン家は特に貧乏だったわけではないものの、当時は大恐慌の時代だったため、子供時代から牛乳配達の手伝いや新聞配達をして働いていました。他にもウサギや鳩を飼ってそれを売っていました。ウォルトンによると、こうしてお金を稼ぐことは当時の田舎の少年には珍しいことではなかったそうです。この頃の経験によって1ドルの価値を知ったと述べています。ちなみにウォルトンは、新聞配達をしていた頃、顧客獲得コンテストで優勝しました。

このような子供時代によって、ウォルトンはアメリカで最も裕福な人となったあとも、必要以上に派手なことはせずに質素なライフスタイルを維持するという信念をもつに至ったそうです。

私が生まれつき、情熱と野心を有り余るほど授かっていたのは事実だ。

ウォルトンは学生時代、運動や勉強はもちろん、学級活動のようなものにも熱心に取り組んだと語っています。また、ボーイスカウトやフットボールの選手として活躍しました。高校時代から授業料、生活費、遊興費などを自分で稼いでいたそうです。

1940年、経済学の学位を取得し、ミズーリ大学を卒業。

ウォルマート創業以前のサム・ウォルトン

大学卒業後、サム・ウォルトンは進学を希望していたものの経済的な理由で断念し、小売大手のJCペニーに就職しました。このJCペニー時代、ある上司に「もし君の販売成績が優秀でなければ、君をクビにするところだ。君は小売業に向いていない」と言われたそうです。

1942年、第二次世界大戦のさなか召集を受け24歳で入隊することになります。1943年にヘレンと結婚。1945年、ウォルトンは兵役を終え除隊しました。ウォルトンは、ペニーには戻らず、小売業で起業したいと考えていました。そこで、図書館に通い、小売業に関するあらゆる本を読み漁りました。

1945年、義理の父に2万5000ドルの借金をして買収したバラエティストア、ベン・フランクリンのフランチャイズ店をアーカンソー州ニューポートにオープンしました。ウォルトンは27歳にして小売業に参入し、州一番を目標にかかげました。「この目標は達成するには、年間7万2000ドルの売上高を25万ドルまで、三倍以上に増やす必要があった。この目標は達成され、アーカンソー州だけでなく、隣接する5つの州でも、売上高と利益が最も多い店になった。」(ビジョナリーカンパニーより引用)。

一方で、このときの契約は不利なもので、当時は無知であったと振り返っています。しかし、事業においては「誰からでも学べる」という教訓を得られたので、無知であったことはかえって幸運だったとかたっています。ウォルトンは実験を重ね、様々なことを試すうちに薄利多売に行き着きました。

最初はほかに良い知恵もないまま、マニュアル通りにやっていたが、すぐに自分で実験を始めた。それが今も昔も変わらぬ私の流儀である。

しかし、契約上のミスで店を失い、ニューポートの街を去ることになってしまいました。店は順調だっただけに、ショックの大きい出来事だったそうです。

私はいつも、トラブルとは自分につきつけられた挑戦状だと考えており、この時もそう考えた。

1950年、アーカンソー州ベントンビルでウォルトン5&10(名前だけで中身はベン・フランクリン)を開き、セルフサービスを導入しました(当時は各売り場ごとにレジがあり店員がいて、さらに店員が客に対応していた)。セルフサービスを導入したのはアメリカで3番目で、近隣の州では初のことでした。

ベントンビルを選んだ理由は、4つの州の角にあり、それぞれの州の狩猟シーズンが楽しめるということと、妻のヘレンが人口1万人以下の小さな街を望んだからでした。この小さな街に出店するという妻との約束は、後のウォルマートの出店計画にも影響を与えました。店は軌道に乗り、ショッピングセンターの開発にも乗り出しましたが、これには失敗。大きな損失を出すことになりました。

15店舗ものベン・フランクリンを経営するまでになったウォルトンですが、自身の自由にできないというチェーン店のしきたりに不満を抱いていました。そんな中、1950年代後半からディスカウントストアという新たなフォーマットが広がり始めます。ウォルトンは、この波に乗ることを決意。これがウォルマート一号店となります。

サム・ウォルトン、ウォルマート創業

1962年7月、サム・ウォルトンは44歳のときにウォルマート一号店をロジャーズにオープン。実はこの一号店はそれほど業績が良くなく、二年後に出店した二号店、三号店の成功が後につながることになりました。

当時はとにかく安さを重視していて、店の見栄えも悪く、品質も後のウォルマートほどではなかったとウォルトンは振り返ります。しかし、ウォルマートはどこよりも安く、商品が気に入らない場合はいつでも返品できるということを徹底し、これが次第に人々に定着していきました。

はじめは、P&Gなどの大手サプライヤーには卸値も売値も一方的に決められ、好条件を引き出すのに苦労しました(後にウォルマートはP&Gの最大の取引相手となった)。

ウォルマートが軌道に乗り始めると、ウォルマートを開く以前に経営していたバラエティストアを減らし、ウォルマートに切り替えていきました。ウォルトンは、ライバル店、ウォルマートの系列店ともに視察を欠かさず、それは家族旅行の途中でも行われたほどでした。

ウォルトンは事業を確実に成功させ、1960年代後半にはウォルマートは12店舗を超え、バラエティストアは15店舗ほどになりました。

1969年、バラエティストア14店、ウォルマート18店にまで成長し、株式会社として登記しました。

1970年、株式公開。それまではウォルトン個人の負債で事業を拡大していましたが、株式公開により、成長は急加速していきます。

ウォルマートの店舗数と売上高のグラフ

上のグラフからウォルマートの急成長がわかります(数値はサム・ウォルトンの自伝より引用)。売上高の単位は100万ドルです。純利益も1970年の120万ドルから1980年には4100万ドルに激増しました。

1974年、ウォルトンは56歳で会長となりCEOを退任しました。これは自分の時間を持ちたいと考えてのことでした。

しかし、これがウォルマートのお家騒動を引き起こすことになります。引退してもおとなしくしていられなかったウォルトンは、引退に失敗。結局復帰し、後継者としてCEOに指名した幹部を失いました。また、この一連の騒動で上級管理職の三分の一を失うという結果になりました。

サム・ウォルトン、世界一のお金持ちに

1977年、ウォルマート初の企業買収となるイリノイ州の小規模チェーンのモアバリューを買収し、イリノイ州進出の足がかりとしました。

1979年、ウォルマート史上初の売上高10億ドル突破。その後、より大きな買収を行うなど、年間100店舗以上のハイペースで出店を重ねていきます。

もちろんやることなすことすべて成功したわけではありません。ハイパーマーケットという大規模なフォーマットで出店するも成功せず、ディスカウントのドラッグストアも失敗、リフォームセンターも失敗しました。それでもウォルトンは、ウォルマート・スーパーセンターなどの新しいフォーマットや、メキシコ進出などの実験を次々に重ねていきました。

成功した実験として、メンバーシップ・ホールセール・クラブのサムズクラブがあります。メンバーシップ・ホールセール・クラブとは、会員制で割安商品を取り扱うフォーマットで、日本ではコストコが有名です。このサムズクラブを1983年に試験的にはじめ、1992年には217店舗、売上高100億ドルにまで成長しました。

1984年、ウォルマートは640店舗、売上高45億ドルを超えるほどまで成長しました。ウォルマートは、1981年から1991年まで、配当と株式分割で年平均46.8%という驚異的なリターンを生み出しました。これは、1981年1月にウォルマートの株に3,000ドル投資すると、1991年1月には105,600ドルになる計算です。

1985年、ウォルトンはフォーブス誌により全米一の富豪に選ばれました。ウォルトンの財産は、その大半がウォルマートの株式のみであるという特筆すべきものでした。こうして全米一のお金持ちとして報道されたことで、ウォルトンと彼の家族は大きな注目を集めることになりました。しかし、ウォルトン家は財産の割に質素な暮らしをしており、それもまた話題になりました。

かつては嘲笑された、小さな町や農村部に大きなディスカウントストアを出店するというウォルマートの戦略は、成功しました。下のグラフからは、1960年代の創業から2000年にいたるまでのウォルマートの信じられないほどの成長を読み取ることができます(数値はサム・ウォルトンの自伝より引用)。

ウォルマートの店舗数の増加(1960-2000)

ウォルマートの店舗数のグラフ1960年から2000年

ウォルマートの売上高の増加(1960-2000)

ウォルマートの売上高のグラフ1960-2000

ウォルマートの純利益高の増加(1960-2000)

ウォルマートの純利益高のグラフ1960-2000

慈善活動家としてのサム・ウォルトン、そして晩年

1988年、ウォルトンは70歳でCEOを退任しました。しかし、亡くなるまで(病床においてさえも)積極的に会社に関わっていました。

1991年、ウォルマートはシアーズを抜き、全米一の小売企業になりました。こうしたウォルマートの前代未聞の成功は、小さな町の商店、さらにはそういったものを含む田舎町そのものを破壊したと非難されるという事態も招きました。ウォルトンおよびウォルマートは、そういった町の声に耳を傾け、反対が多ければ実際に出店を取りやめたりしたそうです(ほとんどの場合、出店を希望する人が多数派でした)。

ウォルマートは、地域に貢献することで住民の理解を得ようと努め、慈善活動や国内生産重視、雇用創出などに力を注いでいきました。また、サム・ウォルトンおよびウォルトン家も、多くのアメリカの成功者同様、慈善活動に力を入れていました。中でも、地元であるアーカンソー州立大学にはウォルトン個人が特に力を入れ、現在でもウォルトンの名を冠するウォルトン・カレッジが存在しています。

1992年3月、ウォルトンは功績が評価され、ブッシュ大統領により大統領自由勲章を授与されました。同年4月5日、有毛細胞白血病と多発性骨髄腫という二つの癌によりサム・ウォルトンはこの世を去りました。74歳でした。

サム・ウォルトンの10カ条!ビジネスで成功するために大切なこととは

参考